昭和四十五年五月八日 朝の御理解
御理解第二十一節
「信心せよ、信心とはわが心が神に向かうのを信心と云うのじゃ。神徳の中に居っても氏子に信なければおかげはなし。カンテラに油一杯あっても芯がなければ火が点らず。火が点らねば夜は闇なり。信心なければ世界が闇なり」
信心せよ。信心とはわが心が神に向かうのを信心と云うのじゃと
私共の心が神様へ向かうと云うことは合掌して向かうと云うことだと思うですね。神様に向かうと云うことは合掌して向かう。
合掌して向かうと云う事は無条件で向かうと神様なら神様に無条件で合掌の姿はね、無条件と云うことです。私はそういう風に思います。拝みます頼みますと云う時にはね、どうぞ無条件で頼みますと云うことです。それが信心ですね。
信心と云うのはね神徳の中に居っても氏子に信なければおかげはなし。私共が神徳の中にあると云うことは皆さんもここで一年も信心の稽古をなさって居られる方ならば分かりますですね。それは話を聞けば成程それが神徳かと分かります。神様の云うならお恵の中にと云うてもいい訳ですよね。神様のお恵そのものが神徳、ね、神様のお徳、お徳の中にいわば私共が生かされて生きて居るのですからそういう神様のお恵の中に生かされて生きて居っても氏子に信無ければと仰る氏子に信無ければ、信とは信心の信が書いてあります。ね、それを信じなければと云うのです。ね、俺は神様のお恵の中に生きては居らんと云うたらもうだからそれまでなんです。だからそんな事言う奴にはもう何にもやるまいと仰る様な神様じゃないですからね。そりゃあまあだから氏子の受け心。成程神様のお恵の中に生かされて生きて居るんだなと信じる事なんです。氏子に信無ければと仰るのはそれなんです。
次の所はだからそれに対する例えなんです。カンテラに油一杯あっても芯が無ければ火が点らずと。これはそういう例えなものだと御神徳の中に私共生かされて居ると云うことをです信じると云う事。ね、その信じるところから神恩報謝の生活が出来ますよねえ。もしそれを信じ無かったら神恩もなからなければ報謝もない訳ですよね。いわゆる奉仕の生活何かと云うことは馬鹿らしゅうして出来ないことになります。
カンテラに油一杯あっても芯無ければ火が点らずと云うことはこの事の例えなんです。ね、カンテラの中に油が一杯あってもやはり芯ここではシンを片仮名でシンと書いてあります。ね、灯芯ですかね灯芯が無ければ火が点らぬ。火が点らねば世は闇なりと。信心無ければ世界が闇なりと。
そこでそんならその芯に火が点らなければならん。その信に神様をそうだと信じて居ると云うだけではだからでけないことが分かります。ね、神様のお恵の中に御神徳の中に生かされて生きて居るんだとそれを信じて居るだけではいけません。信じて居るその信に灯を点じなければ自分の周辺だって明るくはなりません。その自分の周辺の明りがです、周囲を明るくしていく、いわゆる世界を明るくして行くところの働きと云うものがです、ね、どうでも世界中にそういう意味に於いての信心の光と云うものがね灯る時私は神様の願いが世界中に成就した時であると私は思います。ね、ですからそういう意味に於いての神様の願いが先ず私の心の中に成就しなければなりません。ね、そういう神様の願いがね先ず信心をさせて頂く者の心の中に点じられなければなりません。そこに私の心が明るくなる、私の一家が明るくなる、その一家の周辺が明るうなって来るのであります。
今日はここにこの全体をその様に区切ってそのまあ云うなら的確にですねこうして御説明を頂いた訳です。そこでそれがなら私共の日常生活の上にその様に表されなければなりません。そこで問題になるのはそのだからその私共は信心をする、わが心が神様の方へ向かったと、ね、いわゆる合掌して無条件に神様の前に縋って頼む。ね、無条件で頼む。そういう姿が信心と、神徳の中に居ってもと云う事も分かる、神様のいわゆるお恵の中にこの様に生かされて生きて居る今日只今であります。ね、だから氏子に信なければと仰るその信はここで出来ました。ね私共はそこにそれを信じます。神様のお恵の中に生かされて生きて居ることを信じます。そこで信は出来た、ね、お恵の油は一杯ここにある。その中に私共の信が出来た。後はそれに灯を点ずるだけなんです。ね、そこから私の心の中に光が灯もる。一家が明るうなると云うことになるのです。
そこでなら明るうなる様なね、信心なければ世界が闇なりと仰せられるが私の心の中に灯もるいわば信心の光が灯る程しの信心とはどういう信心を指して云うのであろうか。今日はその何事にも信心になれよとこうね、それは何事にも真心になれよと書いてありますね。信心する者は何事にも真心になれよと、何事にも真心になれよとね、真心になる事が私共の心の中に灯を点ずることの働きになるのです。
昨日は総代会でございました。夜御祈念を終わらせて頂いて私も会に参加さして頂きました。皆さん揃うて居られましたから私が今日昨日のことですね、昨日のお参りで昨日一日をほんとに信心になるどんな些細なことにでも信心にならせて頂こうとまあ云うなら充実した一日でありたい、いわゆる一日がほんとに真心で生き抜きたい。それはもう子供の上にでも家内との上にでも親子の上にでも信者のお一人お一人の上に於いてもねそれは対人関係だけのことではないどういう些細な事柄の中にでも真心で行いたい、まごころで思いたいそして充実した一日でありたい。信心する者は何事にも真心になれよと仰るからそういう信心になりたい。ひょっとして明日私が死ぬかも知れない。そんならばです、例えば今日一日をほんとに充実した一日で居らなければ後悔が残る。惜しい勿体ない、まそういう思いで昨日一日過ごさせて頂いた。
皆さん私はね、信心何事にも真心になって行くと云うことの為には工夫しなければ出来ません。話を聞くばかりが能ではない、わが心からも練り出せと。例えば医者からもうお前の命は一週間の命だと言われたらです、その一週間のそんならもう一週間後にそんならしたい事はする、食べたいものは食べる、ね、まあどうせ一週間後には死ぬのならばとにかく楽と云う楽は何でもしとこうと云う様な思い方をする人があるかも知れませんですけどね。ほんとに一週間しか例えば命が無いとこう宣告を受けたとするならです、その一週間を私はですほんとに神様にお喜び頂ける自分も喜べれるね、その一週間をほんとに充実した毎日毎日を過ごしたいと私は思うですね。家内からも喜んで貰えれる子供からもほんとに内のお父さんは神様の様なお人じゃと思われる様なあり方でありたい。その為にはどういう些細な事小さい事でも真心で取り組む、実意を持って取り組む。一週間しか生きて居れんのだからその一日がもう勿体のうして勿体のうしてたまらん。無駄な例えばね、我が侭なと云うか放題な生き方と云うものはねとても勿体なくて出来んと云うのが私の信心者の大体ね、誰でもそういう願いを持たれるのじゃないかと思うですけれどもどうでしょうか。もし皆さんが一週間の命だともし受けたらです、もうがっかりして寝ついて仕舞うかも知れませんねえ、実際。もう力も無かごとなって仕舞うかも知れません。けれども私はね、ほんとにそれは私共が何時死ぬと云った様な事が分かっていないからまあ有難い事なんですけれども、けれどもその一日一日をですほんとに悔いを残さない後悔せんで済む一日一日を有難い一日でありたいと願わせて頂くことの為の工夫が要るです。そうしてみるとですね、私どもが信心生活と云うてまあ居りますけれどもまあ目の粗いことに驚きます。例えば昨日私の一日なんかそれを思い付けさせて頂いての一日でございましたがね、ところがですねところがその様々なやはり問題がありましてね、そんなに一生懸命思うて居りながらね、それを有難く受けられない様な事とかなんか無意味な事の様な事にですね直面するから驚きます。昨日ね私そういう事に直面した時に神様にお縋りしてあの例えばそういう無駄な時間があっては相済まんと思うてその時間を神様にお願いさして頂いたらそこんところはこういう思い方があるぞと、真心になると云うことは真の心と云うことは本当な事なのだ、本当な事をね分からせて頂いて本当な事の思い方を以ってすることなんだから、こういう思い方をしたら良いのじゃないかと云う風にいちいちお知らせを頂いてね、ほんとに成程成程と思うてまあ一日有難いと思うたからその有難いと思うた事をね、総代さん方に私お話をしようと思うた。丁度テーブルの上に私にのお茶が出ましたから私のお湯呑がそれで私がお湯呑のところでですね頭をこう額ぐちのところで手を当ててからテーブルにこう膝をこれをついてねそして今日一日のほんとに充実した一日だったことをどういう風にお話さして頂こうかとほんとに今日おかげ頂いてとこう思うた途端にですね私のこの目の前にあるこのお湯呑の蓋がカチャンと上がって落ちた音がしたんですよ。みんなが聞いてるんですよそれを。私は自分の袖が引っかかったかと思うたんです実は。ところが引っかかったんじゃなくお湯呑はここにこうある訳です、云うならまあほんとに変わったおいさみですねえ。あのお湯呑の蓋がカチャンというてこの上から落とした様な音なんですよ。私がね昨日一日をほんとに如何に充実した一日でありたいと云う事を願ってその体験をみんなにどういう様な順序でお話しようかと思うたらおいさみ、あら私はその時申しました 。ちょっと今の音みんなあんた達聞いたかと。聞きました何の音だったでしょうかと。それが何の音じゃったかちから今のお湯呑さんの音じゃったろうがのと。しかし恐ろしいごとあるね神様のこの生き生きとしたその働きがね、神様がお喜び頂けるれることを思う、今日一日の私の生き方あり方を皆さんに聞いて頂こうと思うたら神様の方がもおう勇み立ってござると云う感じです。もう驚くごとあるねと前提しながらお話したことでございます。
と云うのはですねえ、まあ昨日そういう風に対人関係の場合でもどんな事柄の中からでもね、ほんとに無駄のない一日でありたいと充実した一日でありたいと思って居る矢先に金額は僅かですけどもどうでもお付き合いにでも出さなければならないと云うそのお金を出さなければならない事があったんです。けれども考えて見るとですね、ほんとに馬鹿らしいそれがお金なんです。ね、だから皆さんそういう場合どんな風にどうせ出さんならんとじゃからですね、出さなきゃならんのだから馬鹿らしいけれどもどうせ出さんならんのだから出したと云うだけではそれだけ空虚なものになるでしょうが。それがそれ五百円であろうが一千円であろうがですそのお金がなんか無駄な様な感じがするでしょうが。ね、皆さんそんな事がありましょう。だから私がその様な事でもこれが無駄であってはならないとこう思うわけなんです。ね、けれどもやはり無駄でもどうしてもそれがお付き合いですから出さなきゃならんのです。ね、同時に私共の場合なんかこれが神様のお預かり金と云う風に思うとりますから相済まんことだとこう思うです。そしたら神様から頂きます事がね、「お取り払い」と頂きました。お取り払いを頂いて居ると思うて出せと、だから向こうに真心込めてですね真心込めてなんて簡単に云うけれども実際には真心の込められる場合もある、皆さんが神様にお供えしなさる時には真心込められるでしょうが。お粗末御無礼が何処にあるか分かりません、どうぞお許しを頂いてと云う様に清めた上にも清めた思いでお供えなさるでしょうが。だからそれを使う時でもそういう思いになれればいいのですけれどもそういう思いになれないのです、相手が相手である場合は。ね、だからけれどもやっぱり出さなければならないと云う時がありましょう。そしたらね「お取り払いと思え、」お取り払いそしたらそのお取り払いと云うことに対して心の底からお礼が申し上げれる。いやあ一千円のお取り払いを頂いたと思うんですね。そしたらその出すことはともかくとしてね、お取り払いを頂いたことが千円がとのお取り払いを頂いたことが有難い。そういう事になるのです。又それが実は今日なんですけれども、まあある所からお招きを受ける訳なんです。それが今日は佐田さんところの謝恩祭もございますからまあ先生方私も私は勿論ですけれども私も家内もと云われて居りますからどうしても行かなければならん。それならこれ修行生の方達が何人もその出らなければならないと云うことなんです。しかも行くところがなあんにもならんごた所にどうでもそのやっぱりそのいわば案内が来ておりますもんですから行かなきゃならない訳です。本人達もそう好まないことなんですけれども、やっぱ行かなければ悪いしですね、そういう事があったんです。夕べの御祈念の後にねそういう事をそんならしかしなあんにもならんごたる事にしかし三人も四人もの者が行きます訳ですから云うなら電車代もいりゃあバス代も要る、まあ行くからにゃまたちょっとしたその手土産も持って行かにゃならん。馬鹿らしかばってん案内を、行かん方がよかばい本人もやっぱそう思っている。けども案内を受けとるけん行かにゃならん。例えばそういう事もんなら私共の日常生活の中にはあるでしょうが。出事なら出事なあんにもならん出事ばってんやっぱ行かにゃならんという時がありますでしょう。ね、もう行ったちゃあもう大したこともなかつにそうばってん行かにゃやっぱいけんことがある。けどもそういう様な事がですね例えばそんなら充実したものではない、空虚なものになる。そこにそれだけの敷居が出来ると云うことが私の考えとして今の考えとしちゃ惜しい事なんです。そういう充実しないそこに充実がないですから。そしたらね、その事をそんなに思いよりましたらね三味線の一番上の所のこうなった所あすこは天じんと云うですよね天、上の所下が竿下が胴と胴、竿、天じんにこう繋がっているわけです。あの天じんの所を頂くですね、いわゆる三味線と云うことは一つのリズムが出ると云うことですからそういうまあ音楽的なその一番上にあるところ天じんですからね、わたしは途端の心が晴れ晴れとなっていやあおかげだなと分かったんです。と、云うのはですねなら私が何時も申します様に成行きを大事にすると云う事なのですよ。ね、そういうどうでも行かなければならない、行ってもなんにもなるまいごとあるけれどもです、やっぱり案内を受けて居るから行かなければならんならです、只その事はどうでも良いのです。ですから行って有難く思わなくても又どういう事であってもいいんです。只私はね成行きを只大事にさせて頂いて居るんだと思うたらいい訳なんです。もうそうなりゃ一杯充実して来るでしょうが。私は天じんと云うことはそういう事だとすぐ直感したんです。そこから一つのならリズムが又有難いリズムが尽きることなしに頂くことが出来る。成程無味乾燥の様ですけれどもそのそこにあるものは只神様が行けと仰るから行くのだと神様からその成行きを只大事にさせて頂いて居るんだと云うことだけでそこが充実して来る。
私共がほんとに目の詰まったですね一日でありたい、今日一日を信心になりたい、真心になりたいね。私今日そういう様なことをね、昨日あった事を思わせて頂いて居りましたら今日の二十一節のこの御理解を頂きましたら只今と云う先に説明を申しました様なですね、ここを句切り区切ってですね説明を頂きましたが、ね、信心とは又は氏子に信なければと云う信とは、又信心なければ世界が闇なりと仰る真、光、世界が明るくなる。自分の心に光が灯る。光が点ずる。点ずることが出来ると云った様な信心とはどういう信心かと云うことを先に説明頂いてまあその内容としてです、今の私は二つのこと、昨日一日の私がほんとに一つ信心で今日一日がある、しかも水も漏らさぬ一日でありたいと願わせて頂ながらもそういう二つの出来事があった。その二つの出来事のところには只迂闊にして居るとそれは非常に空間的なものを感ずるですけれどもです、片一方は一つの事はお取り払いを頂いて居ると思うたら有難かった。一つの事ははあ只成行きを大事にして居ると云うだけでそこが充実したと云うことになるのです。ですから本気で私共はその事に取り組ませて頂きますとです、そうした一つの稽古の材料と云うかねあのういわばここはどういう風に頂いたら生き抜いたが本当であろうかと分からない様なところに直面致します。そういうところをです例えば御教えを頂いて私はいよいよ充実した一日でありたい、そういう生き方にです私は灯が点ずる灯が点もる。ね、もうほんとに昨日一日がもうこ恍々たる光の中にある一日の様に感じさせて頂いた。
この二十一節をその様な風に頂いてからあのう今日この様に聞いて頂こうと思うてね、お礼をお話をさせて頂く前にお礼を申させて頂きましたらあの建築の築、築くと云う字ですね、築く竹冠にこうね、中はなんと云うでしょうか下が木になっています、建築の築と云う字に私は読んだけれども竹冠に中に書いてあるのがちょっとですね、どういう風に感じで頂くかというと例えば竹冠の所は竹冠ですからこれは素直と云う風に頂くですね。その中の所はですねそれを匠にね匠に受けて行くと云うこと中は。それから下の木は心です。そうい素直に匠に受けて行く心と云うような感じでその建築の築と云う字を頂くんですよ。ははあ昨日私がそういう一日をたくみにですね、その空間の出来そうな所にもその空間を作らずにその充実した一日でもう一日を恍々たる光の中にそれをさせて頂いた様な思いで行くことを私は築いて行くと云う事、信心とは。ね、それを一つ一つ築き上げて行くと云うこと。それがね、世界にも繋がっていく光にもなると云う事を私は今日感じました。最近云われて居る世界人類の上にですいわゆる「和賀心」ね、の運動を展開して行こうと云った様な例えば云うだけではなくて今日二十一節についての御理解を頂いた様な日常生活が先ず私の中にどんなに体現相互例えばそれをその「和賀心運動和賀心運動」ばかりと云うたって駄目です。先ず私の心の中に光が点じなければしかもその点じていく生き方がです有り方が例えばその昨日私一日の生き方の様な充実した生き方がねでける。そういうおかげをね広げて行かなければならない。それを築いていかなければならない。それが世界が闇なり、世界が光に覆われる程しのですねいわゆる神様の願いがいわゆる神様の願いが地球上にいわゆる成就する。神様の願いが地球上に成就して行く様なですおかげを目指させて貰うなら先ず私の心の中にそれを頂き又目指さなければならん。それにはです私共が何事にも信心になることだと。何事にも信心になると云う事は「真の心」と云うこと。本当なことを本当な事と分かって本当に受けて行くと云うことなんです。金、例えば百円の金を出すでもなあんにもならん事に出しよると云う様な思いの時にはそれはそげな事では百円が死んで仕舞う。そこでですね例えばなら今日私百円がたのお取り払いを頂きよると思うたらその百円が生きて来る。又事実自分の身の上に家庭の上にですめぐりのお取り払いを百円がと頂くとするならばです、それを信ずることが今日はここでは信なければね、氏子に信なければおかげはなしと仰るところはそれなんです。私共はですね、なあんにも今までならんことにお金を出してる。けれどもお付き合いだから仕方が無いと云うて出した分ではですその金は死んで仕舞う。けれども私共の心がです百円がたのお取り払いを頂いて居ると信じる。信なければおかげはなし、その信がおかげに繋がる。またそれが充実と云うことになって参ります。今日行かなければならんところになあにもならんところにばってんがやはり折角案内を受けとるけん行かにゃやっぱでけんお付き合いだと、ほんとに今日一日を無駄な事じゃったになって仕舞うでしょうが。けれどもね、案内を受けて居る云うならば神様が案内を出して下さって居ると思うてなら成行きを大事にさせて頂く、そこは何も私には分かりませんけれどもどういう御神意御都合か分かりませんけれどもなら貴方が行けと仰るから来いと仰るから行くのであり只それを行うて居るだけだと。成行きを只大事にさせて頂いて居ると云うことなんです。そこでそれはなあにもならんと云うことではなくて成行きを大事にさせて頂いて居る神様の云うて下さることを竹冠ですねいわゆる素直に受けてそれを行うて居ると云うことになる。それがね、私共は一段一段信心を本当の意味に於いての信心を築いて行くことになるのです。どうぞ今日一つ水も漏らさぬ程しの御理解を頂いた訳ですからね、皆さんその事に取り組むと云う事は実に有難いことだけではなくて楽しいことなんです。そしてそういう厳密にですね、いわばその些細な事でも例えば分からないところがあったらですね、しかしこういう時にはそればってんどういう風に受けて行ったらいいじゃろうかと云う様な所をです私は求めて来なければならない、教えをひもとかなければならないと云う事になるのじゃないでしょうかね。
今日の二十一節はですね、繰り返し皆さん心の中に頂いて日日の信心生活の内容として頂きたいと思うですね。どうぞ。